監視社会で失われる「プライバシー」という概念

監視社会で失われる「プライバシー」という概念

ネオ東京の街角、無数の監視カメラが人々の日常を記録し続ける。スマートフォンは個人の嗜好を吸い上げ、SNSは感情の断片を商品化する。ティファニー・ジェンキンスの新著『Strangers and Intimates』が問いかけるのは、この高度に監視された世界で、私たちはどれだけの私生活を保持できているのかという根源的な疑問だ。

20世紀におけるプライバシーの侵食

ジェンキンスの分析によれば、プライバシー概念の崩壊は20世紀にその起源を持つ。小型カメラの普及による「コダック狂」の出現、ビル・クリントンとモニカ・ルインスキーのスキャンダルが示した私生活の政治化、そして行動科学者たちが人間をデータに還元した営為――これら全てが、かつて神聖とされていた私的領域を侵食してきた。

特に興味深いのは1960年代の急進派グループ「民主社会のための学生」(SDS)の事例だ。個人の自由を求めた運動が、やがて「公然たる一夫一婦制」すら糾弾する過激さへと変貌していく過程は、プライバシー概念の逆説的な崩壊を象徴している。

啓蒙時代が築いた公私の境界

本書は16世紀のマルティン・ルターやトマス・モアに始まる個人の良心の主張から、18世紀に確立された「公的領域」と「私的領域」の分離までを詳細に追跡する。ジェンキンスによれば、この区分こそが人間の多面的な性格を可能にした、啓蒙時代最大の成果だった。

しかしインターネット時代の到来とともに、この慎重に築かれた境界は再び曖昧になりつつある。監視資本主義の台頭により、私たちは自らの意思で、あるいは気付かぬうちに、最も内密な情報までを市場に提供している。

失われるものの大きさ

ジェンキンスが指摘するように、創造性はプライバシーの中で育まれる。絶え間ない監視と自己開示を強要される社会で、私たちは内省の時間と独創性の源泉を失いつつある。本書が提示するのは、デジタル時代のネオ東京的な風景の中で、いかにして人間性の核心を守るかという切実な問いだ。

高度監視社会はすでに現実となった。だがジェンキンスの著作は、私たちがまだ選択の余地を持っていることを思い出させてくれる。プライバシーという概念を完全に放棄する前に、その真の価値を再考する時が来ている。